ロシアのウクライナ侵攻から一週間。
この間、僕のアテンションはほぼウクライナ情勢に注がれていた。自分に何ができるわけでもない事は分かっているのだけど、それでもニュースを追いかけることを止められない。
思い起こせば、東日本大震災のときも、クリミア併合の時も、イスラム国やアフガニスタンでの米軍撤収前後も、また熱海で起きた土石流なんかでも数日はその件についてひたすらニュースやネット上の情報にアテンションを注ぎ続けていた。
「自分ができることをやったら、後は自分がやるべきことに集中する」とか「心配しても仕方が無いことに囚われ続けるのは意味が無い」とかってことは、頭では分かっている。分かっているけど、できない。
多分、そういう割り切りが苦手だから、僕は仕事で必要以上に背負い込んでしまって、メンタルを壊すことになってしまったのだと思う。おそらくは正すべき僕の悪癖と言ってもよいとも思うし、治せるならば治したい。
ただ、一つだけ、以前の自分とは違うことがある。
僕は今、「こういう時に何も手に付かなくなる悪癖」を前にして、自分自身を残念に思うことは絶対にない、ということだ。
(休職に入る)以前であれば、何も出も手に付かなくなる自分に「なんて自分はおろかなんだ」と自己嫌悪に陥っていただろう。まるで正しい在り方が決まっていて、自分が落伍者であるかのように。
出来事に対しての受け止め方、そこからの行動というのは人それぞれだ。全く気にしない人もいれば、僕よりも激しく落ち込み日常生活すらままならない人もいるだろう。
僕の場合は、仕事もできれば日常生活も送れている。ただちょっと、ブログを書いたりPodcastを録る時間が情報収集に費やされているだけだ。
自分が何も出来ないことのもどかしさを抱えている人も、起きている事の悲惨さに心を痛めている人も、今何が起きているのか気になって色々手に付かなくなっている人もきっと少なくはないだろう。例えそうしたとして、何も変えられないと分かっていたとしても。
理性的に割り切れるあなた”も”素晴らしいし、他人の痛みを感じやすいあなた”も”すばらしい。それが自分というパーソナリティであり、それが世の中に起きる出来事への今の自分の反応なのだからそれでいいじゃないかって思うことにしています。
自分もコロナが流行りだしたときは延々とGuardian紙のコロナ特集ページをリロードしてました。争いは、コロナみたいに常態化しないことを祈るばかりです。。