1982年生まれの僕にとって、少年漫画の主人公は常に努力と不屈の精神の先に強敵を打ち倒す成長を遂げていた。逆境にくじけず、絶望せず、努力と友情と愛と根性と成長で全てをなぎ倒していた。
社会に出た頃にインストールされた別の価値観としては、努力を重ね成長し、どんな苦境からも逃げず、それを乗り越え、天は自らを助ける者を助けると強く信じ、頑張ること、くじけぬ事、逃げぬことこそが美徳であると自分に言い聞かせていた。
そんなスポ根と自己啓発に純粋培養され、15年間培ってきた力業による正面突破ではどうにもならない局面で、壊れたラジカセのように「もっと頑張らないと」を繰り返しつづけた結果、完全に擦り切れてしまった。
頑張りたいのに、頑張れない。
それは初めての経験だった。いつだって、僕の心と体は、僕の無茶に付き合ってくれたというのに、2020年の終わり頃には脳にインストールされたOSからの指令に心と体は応えられなくなっていた。
後天的に「成功と成長」のために獲得した価値観によって、僕は頑張ることを放棄できず、逃げることもできず、自滅していくことになった。そして、その価値観が故に、そのような事態になってしまった自分を中々許すことができなかった。
「あなたは十分に頑張った」
動けなくなり、泣くことしか出来なかった僕にそう言ってくれた妻の言葉に救われた。どういう状況であれ僕という存在を全面的に肯定してくれる子供のおかげで「今自分が生きていることの価値」を辛うじてつなぎ止めることができた。
2年という月日を経て、体調は随分とマシになった。多少の無理も利くようになった。この半年はしんどいことの方が多かったけど、「いのちをだいじに」モードでなんとか続けられていることは「大きな前進」である。
2021年に入ってすぐに休職期間に入り、無宗教の自分が何度も神社に足を運んでは「どうか、また普通に働けるようになりますように」と願掛けを行った。
あの頃は普通に働くことがとても遠い目標に思えたけど、2年という月日の中で、気がつけば随分と普通に働けるようになっていた。何なら今は「かなり無理が利いている」わけで、もはや「めっちゃ働けている」状態への大躍進と言っても差し支えはない。
それでも時々、かつての自分、もっと頑張れていた頃の自分を思い出しては「まだまだ自分は頑張りが足りない、精神的にも弱すぎる」と自分を責めてしまう。今の自分のキャパに対して頑張りすぎた結果動けなくなった自分に明らかに失望してしまっている。
ちゃうねん。それはもう、十分頑張っとんねん。頑張りすぎて、自分を追い込んで、限界まできたから動けやんくなっとんねん。
後から少し冷静になって、そうやって頑張れなくなった自分を許せるようになったことは成長なのかも知れない。2年前は壊れていく自分に気付きながら、ただ「もっと頑張らないと」を繰り返すことしかできなかったから。
病気になる前のベストの自分と比べて失望するのではなく、病気になってまたゼロから積み上げてここまできた自分を誇ろう。普通に働けていることの歓びを噛みしめて、ついついキャパ超えまで頑張ってしまったことは反省しつつ自分を労おう。
頑張る気持ちには色々な種類があると思う。逆境にくじけず、常に人一倍努力をし、無茶を重ねることだけが頑張るではないのだ。
子供の寝顔を見つめながら「頑張らないとな」と思ったのだけど、それはどちかというと「なんとしてでも生き抜いてやろう」という静かな決意に近い。他人からなんと言われようと思われようと、生き抜くためであれば「頑張らない」ことも厭わない。
「いのちをだいじに」モードで生きることはそれ程容易いわけではない。自分を含めてもっと頑張れ、努力をしろという声に耳を貸さず、今自分が出来ることの中でやれるだけのことをやる。なんなら少し余力を残すぐらいでやっていく必要がある。
そんなわけで、僕は今日も不安を抱えて、ボチボチ頑張りすぎないように、そんな自分を許せるように頑張って毎日を過ごしている。