倉下さんから言及いただきました以下の記事について
やりたいことがこんなにも少ないなんて・・・自分はなんてつまらない人間なんだ
ちょっと自己卑下の軽口が過ぎたなと反省。
これだと、僕が「やりたいことが少ない人はつまらない人間だ」と思っているように読めてしまうので、そんなことはないっすよって話に信憑性を持たせるために次の倉下さんのお題に答える形で「考えを表明」しておきます。
皆さんの「やりたいこと」リストは何個くらいになるでしょうか。その大小についてどうお考えでしょうか。できれば、コメントではなく投稿でお答えくだされば幸いです(短く答えてしまうと大切なニュアンスが抜け落ちる可能性があるので)。
やりたいことの多寡は問題ではなく、やりたい想いの強さの方が大事
「やりたいことが多い方が良い」とは実際の所思ってないので自分の中に「なぜ?」への答えってないんですが、少なからずやりたいことの多寡は問題ではないよなという直感はあります。むしろ、やりたいことへの想いの強さが大事というか。
一つには「自分がやりたいこと」は自己完結的であるべきと思っています。いいかえると「他の人からどう見えるか」なんてことがやりたい欲求の源泉じゃない方が僕の中ではより好ましいわけです。
大量消費・マーケティングによって欲求が喚起されている側面はあると思いますが、それって別に悪いことじゃなくて、行きたいと思える場所に出会えてそこに行って良かったと思えるならそれは素晴らしいことだと思っています。
例えば、僕のやりたいことリストに「シリコンバレーに行く」というものがあります。行こうと思えばいつでもいけますし、なんなら仕事で出張できんこともない場所です。
僕にとって常にシリコンバレーは憧れの地でした。
NHKのドキュメンタリー「新電子立国日本」シリーズではじめて触れた数々のシリコンバレーの物語に強烈な憧れを抱き、僕はIT系の道を志し、今に至ります。今ではシリコンバレーの同僚と仕事をし、英語もそこそこ話せるので現実的に到達可能な目標となりましたが、中学生の頃の僕には途方もない夢だったように思います。
もちろん、40個あげた全てにそういう「強烈な想い」があるわけではないのですが、僕にとって「誰かにおすすめされたから」とか「他の人からよく見られるから」みたいなものは「自分のやりたいこと」には含めていません。
あくまで一度冷静に見つめてみて「それは本当に自分がやりたいことか」を確認したものだけが「やりたいこと」として扱われます。
ただ、ここまで述べたことは僕にとっての「やりたいことリスト100」或いは「やりたいこと」はそういうモノだというだけで、他の人と定義が異なるだろうし、異なって良いと思っています。僕は映えスポットに興味はありませんが、映えスポットに行きたい人に対してどうこう思うことも、言うこともありません。
自分を含めた誰かのやりたいことというのは、割とセンシティブな部分であることが多く、最大限リスペクトされるべきモノであると考えています。
なぜ僕は「やりたいことが少ない自分はつまらない」と思ったのか
たとえ自虐の軽口だとしても、口をついたと言うことは僕は少なからずそういう感覚を持っていたことは確かなので、なぜ僕はそう思ったのかを掘り下げてみる価値はあるように思います。
少し考えてみたところ、理由は大きく三つあるように思いました。
一つ目は、自分がうつ病にかかり一度あらゆる事柄への「やりたい欲求」を失ってしまったことが挙げられます。時を経て今の自分が「何かをやりたい」と再び思えるようになったことは凄く特別で、とてもうれしい出来事なのです。
やりたいことが沢山あって、精力的にそういうことをやっている人たち、夢を標榜しそれを追いかけている人をどこかで「すごいな」「うらやましいな」と思っているところがあります。
今の自分では日々をなんとか生き延びるのが精一杯で、やっとの思いで取り戻したわずかばかりの「やりたい欲求」の灯火が消えないように必死で強風から守っているような状況なので、一層周りの人が羨ましく見えるのでしょう。
二つ目は、これまでの生き方が大いに自己啓発に依っていた点が挙げられます。
夢や希望を語り、それを達成するために目標を立て、目標を達成するための行動に落とすなければならない
夢は持つべきで、叶えるために頑張るべきで、そのために計画を立てて行動を起こさねばならない。
理想と現実のギャップは埋めなければならない。
こういったことを本気で信じる一種の呪いにかかっていたように思います。
前回の記事で僕がいっていたことはざっくり「人間はやりたいと思ったことすら忘れてしまうので備忘録としてやりたいことリスト100を使うことにした」ということですが、身体に染みついた「夢を持つべき、かなえるべき」といった自己啓発的な考え方の癖は未だ残っているのかもしれません。
三つ目の理由は、隣の芝生は青く見える、ですね。
やりたいことリスト100について調べると、少なくない数の「夢を叶えるための」という枕詞を目にしました。実際に「夢が叶った」とも。
ある人は悠々と100個以上のリストを作り上げ、そして夢を叶えている。やりたいことがいっぱいあるんだなぁ、しかもそれをやれてるんだなぁ、羨ましいなぁ。僕はリストに40個やりたいことを書くのに苦労しているってのに。
と、まぁそんな羨望を胸に抱いた結果「なんて自分はつまらない人間だ」みたいな自己卑下になってしまったのだろうなと。
夢、目標、ビジョン、成功、偉大さを求めなくなった
うつ病で休職する以前の僕は「夢を叶えるためにもっと頑張らないと」とか「理想の自分に比べて自分はなんて・・」「これぐらいの事で諦めていたら何もなし遂げられない」みたいな感じで自分を追い込み、現実の自分に落胆し、一人で勝手に疲弊してしまっていた様に思います。
本来はよりよく生きるために学んでいた自己啓発によって自分のウェルビーイングが脅かされていた訳ですから、本末転倒も甚だしいですね。
今はもっとEasyに考えていて、
夢や目標なんて無理に立てなくても良い
やりたい欲求が湧いた!?それはすげーことだから良いぞもっとやれ!
成功なんてどうでも良いから今の幸せを優先しろ
やばくなったら逃げろ、サボれ、生き延びろ
明日やれることは明日やればいい
今週もよく生き延びたなグッジョブ俺
みたいに大分アバウトな感じになっています。近藤麻理恵よろしく、人のためではなく自分の心がワクワクする「やりたい事」以外は全部無視。
キャンプで薪を割らなくったって、ファイヤースターターを使わなくたって良い。ありものの薪と、着火剤で良い。僕のやりたい事は「焚き火を見ながらChillする」ことだから。
凄い事ができなくてもいいし、凄いとひとに思われなくてもいい。自分と家族が幸せに生きられるなら、成功なんてどうでも良い。
きっと僕はまだ、長らく付き合ってきた「夢は持つべき、かなえるべき」「人はビジョンを持って成功を収め、偉大性に到達しなければならない」みたいな考え方からは完全に抜けきれていないのだろうと思います。
ま、それはそれ、あんまり難しく考えず、自分がやりたいと思っている事、日々の幸せを感じることを大切に生きていければと思います。